今年8月で赤帽を始めて27年目に突入します。
27年間の間にはいろいろなことがありました。
運送屋経験を経て独立し、開業したのが1988年8月のこと。
当時、留守番電話に電話番を頼んでおいたが、役に立たず・・。というのも人は留守電話に向かって話をするのは苦手らしい。
初めての栃木は遠かった!その後、茨城にも行った。群馬では道を間違えたこともあった。東京や、神奈川にはよく遊びに行っていたので明るかった。寒くなりかけたころ、山形に行った。雪で道路が通行止めになっていた。12月に結婚してからは、夫婦二人三脚でやってきた。。かみさんは身ごもっていたので、家で電話番の毎日・・。一人では便が廻らず、同業の赤帽さんに仕事を頼んだり、友人にバイトを頼んだこともしばしば・・当時は、「ポケットベル」での連絡が普通であったが、しばらくして「自動車電話」(今の携帯電話のデッカイ版)が発売された。ポケベルに不便を感じていたこともあり、思い切って自動車電話を購入することにした。NTTの保証料だけで30万円も取られた。通話料だって今の何倍もした。道志、秋山など電波の通じないところもあったが、電話を購入したことでかみさんのいら立ちは消えた。
当時、得意先からの便の依頼の電話があって、折り返し返答するまでには、30分は普通だった。15分なんて超早だった。今は、10分以上も得意先を待たせたら大変なことになってしまう。20年の間に世の中は便利になったものの、とても忙しくなった。来5月にかみさんは長男を出産してからしばらくしてからは、一緒に仕事に行くことも多くなった。助手席で監視?されていた。1991年に次男を1993年に長女を出産してからのかみさんは、相模原、御殿場くらいなら自分で運転して行くこともあった。子供たちは、保育園か、吉田ばあちゃんの元へ・・。
だいぶ地理にも明るくなってきたころ、かみさんと名古屋へ行った。名古屋のセンターへ立ち寄り、帰り便をもらうことにした。半日待ってもう夜になったころ、群馬便をもらうことができた。山梨を越えて群馬だったので(翌日神奈川便の予約があったので)ちょっとしんどかったが、二人で交代しながら運転した。家に帰り着いたのは、明け方だったと思う。
かみさんとは、北九州へも行った。それも5月と、7月の2回も・・。5月のときは、バンの代行だった。九州までどのくらいかかるか・・。名古屋までが、4時間。大阪までが、6時間。そこから先は、未知だったが、二人で交代しながら、とにかく走った。名古屋を過ぎ、大阪を過ぎ、広島までがやたら遠かった。山陽道路は、対向車もなく、あたりが真っ暗であった。出発したのが夕方5時過ぎで、関門海峡を渡ったころにはあたりが白々と明るくなり始めていた。7月に行ったときには、赤帽車だったので前よりも時間がかかった。やはり、夕方出発して翌早朝には、関門海峡にいた。納品を終えてからしばらく仮眠して、お昼ごはんに、長崎皿うどんを食べたのを覚えている。店の名前は忘れてしまったが、タクシー運転手の溜まり場・・。大盛りで、たくさん具が入っていてとても美味しかった。
そう、今はコンビニが普及してどこにでもあり、便利だが、当時は夜中に走っていても淋しいものだった。朝着というときは、弁当を作ってもらい、家から、缶コーヒーを何本かもって出たものだ。(ちなみに今ではかみさんは弁当を作らない。)いろいろ思い起こしていくと、
16年の間に世の中はとても変化した。とても便利になったものだ。子供たちも成長したが、私たちも年をとった・・?!
1998年4月、「GQS」と言う2トン車〜4トン車までのトラック部門の系列会社も設立。
少ない荷物の特急便は赤帽後藤急送へ・・。それに乗り切らない荷物であれば、トラック便へ・・。これからも後藤急送はお客様のニーズに応えるため前進していきます。何なりとお申し付けください。これからも後藤急送をよろしくおねがいします!AG